割れた皿に思うこと

レギュラーで使ってた皿が欠けていたのが気になって、お皿を買いました。
使っていた皿は実家にあったもので、馴染みがあるものだったので、それに変わる皿を探すのは骨の折れる作業でした。

ようやくメルカリでこれ!というお皿に出会いすぐに購入ボタンをポチリ。
それはどなたか存じませんが、益子焼きの作家ものでなんとも独特な色合いをした厚めの平べったいお皿です。

既製品でなかなか欲しいものがなく、子連れでなかなかお店めぐりができない中、メルカリってたまにすごく便利!
出品者も感じのいい方ですぐに送ってくれました。

で、届いたお皿。
ワクワクでダンボールを開けると、、、、

割れてました。。。

もうピンヒールで踏んづけたんじゃなかろうか、ってぐらいにバラバラに。
実際には直視してません。エアパッキンごしに触ったらバラバラだわ。って思って怖くて見れなかったです。

幸いにゆうパックの補償がついていたので、購入金額を返金してもらい終了。となりました。
そもそも2000円ほどで購入したので、別に返金されなくても大した額ではありません。
まあ、結果何も買わなかったのと一緒です。

でも、でもなんだかモヤモヤが晴れません。

郵便局の人に言いたかった。
あの皿は2000円の価値以上だったのよ。と。
で、世界にたった一つで、もう二度と元には戻らないのよ。と。

もちろん言いません。郵便局の人だって誰が割ったかなんてわからないですし、
電話口で受けた係りの人にそれを伝えたところでどうにもならないですから。

郵便局の方に出来ることは補償金を支払うことだけです。

私は楽しみにしてたのです。
その皿を使うのを。実際に見て、触るのを。
それはどうやっても叶わないのが悲しいようです。
誰が悪いわけでも(まあ割った人はいるわけですが)、私が実際に損したわけでもないのですが。
ワクワクの気持ちを奪われたのですね。

皿が一枚割れただけで(しかも2000円の)なんだか大げさな話ですね。

大げさついでにもっと大きいことを考えてみました。

気持ちはお金に変えられるのか?

難しいテーマになりました。
YESでありNOであると思います。

例えば、「感謝」の気持ち。
これはお金に変えられるような気がします。

「お祝い」の気持ち。
これも同様にお金に変えられますね。

では、「謝罪」の気持ち。
これはどうでしょう。

謝罪をする状況。
何かを損なわれた側と何かを損なってしまった側。

それに対して、お金で決着をつけるということ。
損なってしまったものは戻らないけれど、「ごめんなさい」の気持ち。

「おめでとう」とか「ありがとう」の気持ちはお金に変わっても受け取る側は気持ち良く受け取れるのに
「ごめんなさい」の気持ちはお金に変わった時、なんだか複雑な気分になります。
とはいえ、何か目に見えるものにして「謝罪」の気持ちを表す必要がある状況というのは時にあります。
しかし、それで全てが元どおりにならないようです。

損なわれたものと等価交換するのは不可能なのですね。
何かそれに変わるもの、時にはそれよりも価値のあるものに変わる場合はあっても。

お皿の話に戻りますが、
割れてしまった世界にたった一つだけのお皿は、全く同じものが返ってこない限り私の残念な気持ちはなくなりません。

そう思って周りを見渡すと、身の回りにはたった一つだけのものが何と多いことか!

友達からもらった手紙、描いてもらった絵、大切に育てている植物、母親が作ってくれた雛人形は今は娘のために飾ってあります。

そう、娘、息子、夫、家族たち。

周りにはむしろ取り変えのきかないものばかりで溢れかえっています。
なんと危うくて、なんと有難い事なんだろう。
そして、それは当たり前の事なんだけれども。

毎日、毎日ルーティーンの繰り返しで忘れそうになりますが、この毎日は奇跡みたいに有難い日々なんだと
割れたお皿が今一度気づかせてくれました。

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